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本能寺の変、謀反の動機は家康暗殺計画の阻止だった?

■はじめに:永遠のミステリー「本能寺の変」

日本の歴史上、最も有名であり、かつ最大の謎に包まれた事件、「本能寺の変」。 天正10年(1582年)6月2日未明、京都・本能寺に滞在していた天下人・織田信長が、もっとも信頼していたはずの家臣、明智光秀によって討たれました。

「敵は本能寺にあり」

この有名な言葉とともに決行されたクーデターは、日本の歴史を大きく変えました。もしこの事件がなければ、信長による天下統一は完了し、今の日本とは全く異なる政治体制や文化が生まれていたことでしょう。

しかし、これほど有名な事件でありながら、その核心部分である「なぜ、明智光秀は謀反を起こしたのか?」という動機については、400年以上経った今もなお、決定的な答えが出ていません。

古くから語られる「怨恨説」。信長の度重なるパワハラや折檻に耐えかねたというものです。 野心を抱いたとする「天下奪取説」。 あるいは、朝廷や足利義昭、イエズス会などが裏で糸を引いていたとする「黒幕説」。

数えきれないほどの説が提唱されてきましたが、どれも決定打に欠け、帯に短し襷に長しという状態が続いています。知将・明智光秀ほどの男が、単なる一時の感情や、成功率の低い野望だけで、主君を討つという大博打に出るでしょうか?

そこには、もっと切迫した、論理的かつ政治的な「っぴきならない理由」が存在したはずです。

今回ご紹介するのは、そうした既存の説とは一線を画す、非常にスリリングで整合性の取れた一つの仮説です。それは、「光秀は、信長によって計画された徳川家康暗殺を阻止するために立ち上がった」という説です。

なぜ信長は同盟者である家康を殺そうとしたのか? なぜ光秀はそれを止めなければならなかったのか? そして、なぜこの計画は失敗し、光秀は「逆賊」の汚名を着ることになったのか?

パズルのピースが次々とはまっていくような、この「家康暗殺阻止説」について、当時の情勢や人間の心理を紐解きながら、5000字を超えるボリュームでじっくりと検証していきます。歴史の教科書には載っていない、もう一つの「本能寺の変」の真実に迫りましょう。


■第一章:天正10年の情勢変化〜「用済み」になった徳川家康〜

この説を理解するために最も重要なのは、本能寺の変が起きた「タイミング」です。 天正10年(1582年)3月。本能寺の変が起きるわずか3ヶ月前、織田信長と徳川家康の連合軍は、長年の宿敵であった甲斐の武田家を滅亡させました。

長篠の戦い以降、弱体化していたとはいえ、戦国最強の騎馬軍団を擁する武田家は、織田家にとって常に東からの脅威でした。その武田家に対する「壁」の役割を果たしていたのが、三河・遠江を領する徳川家康です。

信長にとって家康は、幼少期からの付き合いがある盟友であると同時に、強大な武田軍を食い止めてくれる、なくてはならない「防波堤」でした。だからこそ、信長は家康に対して一定の配慮をし、同盟関係を維持してきたのです。

しかし、武田家が滅亡した瞬間、その前提条件は崩れ去ります。 東からの脅威は消滅しました。織田家の領土は東国へと大きく広がり、もはや徳川家を「壁」として置いておく必要性は失われたのです。

政治的なリアリズムで見れば、家康の役割は終わりました。それどころか、三河武士団という精強な軍事力を持ち、忍耐強く、信長よりも若い家康は、将来的に織田家の覇権を脅かす最大のライバルになりかねません。

「狡兎死して走狗烹らる(すばしっこいウサギが死ねば、猟犬は用済みとなって煮て食べられてしまう)」

中国の史記にあるこの言葉通りの状況が、まさに天正10年の織田・徳川関係に生まれていたのです。冷徹な合理主義者である信長が、「家康はもはや不要。むしろ危険な存在である」と判断したとしても、何ら不思議ではありません。


■第二章:信長と家康の埋まらない溝〜信康切腹事件の影〜

信長が家康を排除しようと考える理由は、単なる勢力図の変化だけではありません。両者の間には、決して修復できない深い溝、怨恨の火種がくすぶっていました。

それは、天正7年(1579年)に起きた「松平信康切腹事件」です。 家康の嫡男・信康は、武勇に優れ、人望も厚い、徳川家の将来を嘱望される若武者でした。しかし、信長の娘である徳姫との不和をきっかけに、信長から「武田と内通している」との疑いをかけられ、切腹を命じられた(あるいは家康が忖度して腹を切らせた)とされています。

自分の愛する長男を、同盟相手の理不尽な要求によって殺さなければならなかった家康の無念は、計り知れないものがあったでしょう。 信長からすれば、「いつか家康はこの恨みを晴らすために牙をむくかもしれない」という疑念が常に頭の片隅にあったはずです。

武田という共通の敵がいなくなった今、家康を生かしておけば、いつ寝首をかかれるかわからない。ならば、相手が油断している今のうちに、根絶やしにしてしまうのが上策——。 天下布武を推し進め、比叡山焼き討ちや長島一向一揆の殲滅など、敵対者には容赦のない粛清を行ってきた「魔王」信長なら、そう考えたことでしょう。

そして、その「絶好の機会」が、武田攻めの戦勝祝いとして家康を安土、そして京都へと招いた、あの日だったのです。


■第三章:仕組まれた「家康接待」の罠

天正10年5月、家康は信長の招きに応じて安土城を訪れます。 この時、家康の接待役(饗応役)を命じられたのが、明智光秀でした。

通説では、この接待の最中に、魚が腐っていた(あるいは光秀の準備に不備があった)として信長が激怒し、光秀を足蹴にして接待役を解任。中国地方で戦う羽柴秀吉の援軍に向かうよう命じた、と言われています。これが光秀の怨恨の引き金になったというエピソードです。

しかし、この「家康暗殺阻止説」の視点から見ると、全く別の景色が見えてきます。

もし、信長が最初から家康を殺すつもりだったとしたらどうでしょう? 安土城での接待は、家康を安心させ、武装解除させるためのセレモニーに過ぎません。そして、光秀が接待役を解任され、急遽軍勢を率いて出陣することになったのも、すべては「軍事行動を起こすための口実」だったとは考えられないでしょうか。

信長は、光秀にだけ、密かに恐るべき命令を下していた可能性があります。

「家康は少数の供回りだけで京へ向かう。京の本能寺で茶会を開くが、その隙を狙って家康を討ち取れ。その後、徳川家臣団を一網打尽にし、三河・遠江を平定せよ」

これなら、信長公記などの公式記録に光秀への命令が残っていないのも納得がいきます。同盟者を騙し討ちにするなどという外聞の悪い命令は、決して文書には残せません。もっとも信頼し、知略に長けた光秀だからこそ、口頭での密命として託されたのです。

家康はこの時、信長を完全に信用し、わずかな供回り(徳川四天王や穴山梅雪など主要な家臣たち)だけで無防備に京・堺を遊覧していました。まさに、袋のネズミ状態です。


■第四章:明智光秀の苦悩と「正義」

しかし、この密命を受けた光秀の内心は、穏やかではなかったはずです。 光秀は、室町幕府の再興に尽力するなど、古き良き秩序や信義を重んじる教養人であり、常識人でした。また、外交官としても優秀で、各方面との調整役を担っていました。

そんな光秀にとって、家康の暗殺は「狂気の沙汰」に見えたことでしょう。 「そのような不義理を働けば、織田家の信用は地に落ちる」 光秀はそう危惧したはずです。

もしここで家康を討てば、どうなるか。 徳川家中の残党は死に物狂いで抵抗するでしょう。それだけではありません。これまで織田に従っていた他の大名たちも、「次は我が身か」と恐怖し、一斉に離反する可能性があります。上杉、毛利、北条といった敵対勢力も勢いづくでしょう。

天下統一目前にして、日本中が再び泥沼の戦乱に逆戻りしてしまう。 光秀は必死に信長を諫めたと考えられます。 「上様、なりませぬ。家康殿を討てば、天下の諸侯は皆、織田を信じなくなります。それは織田家の破滅を招きます!」

しかし、独裁者となった信長の耳に、その言葉は届きません。一度言い出したら聞かない信長の性格を、光秀は誰よりも熟知していました。 命令に従わなければ、自分も処分されるかもしれない。しかし、命令に従えば、織田家は、いや日本という国は、信用なき修羅の道へと突き進むことになる。

追い詰められた光秀が出した結論。 それは、狂気に走った主君・信長を排除し、織田家と日本の秩序を守ること。 つまり、「家康を殺すために与えられた軍勢で、逆に信長を討つ」という、乾坤一擲の賭けでした。


■第五章:兵士たちは「家康を討つ」と思っていた?

この説を強力に裏付ける、非常に興味深い史料が存在します。 本能寺の変に参加した明智家の部隊長の一人、本城惣右衛門(ほんじょうそうえもん)が残した『本城惣右衛門覚書』です。

彼は、本能寺へ向かう道中での心境をこう記しています。 「我々は、家康様を討ちに行くものだと思っていた」

これは衝撃的な証言です。 当時の下級兵士たちは、自分たちの標的が主君である信長だとは知らされていなかったことは有名ですが、彼らは漠然と出動したのではなく、「家康を討つ」という明確な目的(誤解)を持って行軍していたのです。

なぜ、彼らはそう思ったのか? 答えは簡単です。光秀がそう命令したからです。

光秀は家臣団に対し、「上様(信長)の密命である。京にいる家康を討つ」と説明して出陣したのではないでしょうか。 これならば、中国地方の秀吉への援軍という本来のルートから外れ、京都へ向かうことへの正当性が立ちます。「信長様の命令なら仕方がない」と兵士たちも納得するでしょう。

そして、いざ本能寺を取り囲んだ段階で、「敵は本能寺にあり(標的は家康ではなく、本能寺にいる者たちだ)」と号令を下す。あるいは、本能寺に家康がいると誤信させたまま突入させた可能性すらあります。

森蘭丸が信長の指示で「軍備の確認をしたいから本能寺へ来てくれ」と光秀に連絡を入れていたという説もありますが、光秀にとっては渡りに船です。軍を動かす絶好の口実となり、兵士たちには「家康討伐の準備の一環」あるいは「急遽、標的が変わった」と思わせることができたのです。


■第六章:誤算と敗北〜消えた信長の遺体〜

計画は完璧に見えました。 信長を討ち、家康を救う。そうすれば、家康は光秀に恩義を感じ、協力者となるはずです。 光秀は、事件後すぐに細川藤孝・忠興親子に送った手紙の中で、「50日か100日ほどで近国を平定したら、あとは忠興殿らに任せて隠居したい」という趣旨のことを書いています。ここからも、彼が長期的な独裁政権を望んでいたのではなく、あくまで緊急避難的な措置としてクーデターを行い、事態収拾後は信頼できる者に任せるつもりだったことが読み取れます。

しかし、致命的な誤算が生じました。 信長の遺体が見つからなかったことです。

本能寺は焼け落ちましたが、信長の首も骨も見つかりませんでした。 これにより、「信長はまだ生きているかもしれない」という噂が駆け巡ります。 光秀が期待していた細川藤孝や筒井順慶といった与力大名たちは、信長の生存を恐れ、あるいは光秀の大義名分(家康救済という裏の事情は公にできないため、単なる逆賊に見えてしまった)を疑い、誰も味方につきませんでした。

さらに、中国地方にいた羽柴秀吉が、常識外れのスピードで京都へ戻ってくる「中国大返し」を成功させます。 孤立無援となった光秀は、山崎の戦いで敗れ、落ち延びる途中で農民の竹槍に倒れた——というのが定説です。

もし信長の遺体が発見され、その死が確定していれば。あるいは家康がもっと早く光秀に合流できていれば、歴史は変わっていたかもしれません。光秀の計算違いは、信長のカリスマ性が死してなお、人・恐怖で縛り付けていたことでした。


■第七章:天海僧正伝説〜家康と光秀の密約〜

さて、この物語には続きがあります。 「家康暗殺阻止説」を採用すると、あの大胆な伝説がにわかに現実味を帯びてくるのです。

「明智光秀 = 南光坊天海」説です。

南光坊天海は、徳川家康の参謀として、江戸幕府の草創期を支えた高僧です。彼の前半生は謎に包まれており、家康に初めて会ったときにはすでに老人だったと言われています。 日光東照宮に明智の家紋である桔梗紋があしらわれていることや、天海という名が光秀とゆかりの深い文字であることなど、状況証拠はいくつも挙げられていますが、最大の根拠は「なぜ家康は、どこの馬の骨とも知れない老僧を、あれほど重用したのか」という点です。

もし、天海の正体が、本能寺から生き延びた明智光秀だったとしたら? そして、本能寺の変の真の動機が「家康の命を救うこと」だったとしたら?

家康にとって、光秀は自分の命の恩人です。 山崎の戦いの後、密かに生き延びた光秀を、家康が保護したとしても不思議ではありません。しかし、主殺しの逆賊である「明智光秀」として表舞台に出すことはできません。 そこで、「天海」という僧侶の身分を与え、黒衣の宰相として傍らに置き、その並外れた知略を幕府作りのために借用した——。

こう考えると、非常にロマンチックでありながら、妙に辻褄が合うのです。 関ヶ原の戦いで家康が勝利し、徳川の世が盤石になった時、その陰にはかつて家康の命を救うために全てを犠牲にした男、光秀の知恵があったのかもしれません。


■おわりに:歴史の空白を想像する楽しさ

今回ご紹介した「家康暗殺阻止説」は、あくまで数ある仮説の一つに過ぎません。 しかし、この視点で本能寺の変を見直すと、光秀の不可解な行動、兵士たちの証言、そしてその後の家康の行動など、多くの謎に対して論理的な説明がつきます。

単なる権力争いではなく、互いの「正義」と「生存」をかけたギリギリの駆け引き。 信長の冷徹な合理性、光秀の義理堅さと苦悩、そして家康の強運。 これらが複雑に絡み合って起きたのが、本能寺の変という事件だったのではないでしょうか。

歴史の面白さは、確定した事実の羅列ではなく、その行間にある「人の想い」を想像することにあります。 あなたはこの説をどう思いますか? 「実は家康と光秀は共謀していた」「いや、やはり秀吉が怪しい」など、想像は尽きません。

今度、京都を訪れた際、あるいは大河ドラマや時代劇を見る際には、ぜひ「光秀は家康を守ろうとしていたのかもしれない」という視点を持って、物語に触れてみてください。きっと、今までとは違った景色が見えてくるはずです。

真実は、本能寺の灰の中に永遠に埋もれていますが、だからこそ私たちは、そこに無限のドラマを見出すことができるのです。

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この記事を書いた人

沖縄で3匹の猫たちと暮らす「沖縄の黒猫」と申します。スマホやAIの進化で色々な情報が簡単に手に入る便利な時代ですが、得た情報を実践するのは凄く難しいので、得た情報を記事にすることで色々行動出来る様になりたいと思い、思い切ってサイトを運営することにしました。

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